
北方謙三
水滸伝を読み切る。
多分、かつてないほどの読書体験をしたと思う。
今まで、いい本には幾つか出会ってきた。だから、僕はこうして本を書こうと思っているわけだし、
芸術に今も魅せられ続けている。
最初は、村上春樹だった。
『ノルウェイの森』が僕が一番初めに読んだ本だった。
それから、春樹
文学をほとんど舐めるようにして読みつくして、
すぐ隣にあった、
村上龍という似たような名前の作家に手を出した。
黄金ルールだったように思う。
二番目の村上は僕を春樹以上に虜にさせた。
特に、今でも『コインロッカーベイ
ビーズ』と『愛と幻想のファシズム』そして、『限りなく透明に近いブルー』は、僕のなかの
小説の
ヒーローであり続けてた。
美しい本を読みたいと思って、
純文学にも手を伸ばすようになった。芥川や太宰もこのとき出会った。
でも、何かが物足りなかった。
僕はかつての純文学と今の純文学とでは、
シーンの破壊力と熱気が違うように思う。
例えば、青春小説を幾ら読もうとしても、今なら
バイクが出てきて、喧嘩が出てきて、麻薬まで出てきたりするのが今の文学だ。
でも、一昔前の青春文学には、せいぜい着物の読書好きの書生が出てくるまでだ。
それで、もっと刺激的な文学を求めて、僕は人生の一の小説家、花村萬月に出会った。
この人の本は凄かった。生々しい、痛々しい、そして、切ない。悲しいほど、うまみが詰まった、不思議な本を書いていた。
『
ブルース』と『重金属青年団』は
オススメする。
未だに、僕の心のなかに、ブルースも青年団の青春も、打ち響いている。
そんな萬月がブルースのあとがきで、「俺は体言止めで文章を書こうとするたびに、ある男の名が頭にちらついた。そしてそれが、俺をパクリじゃねえか、って恥ずかしくさせた。俺達はいつだって、その作家の影に怯えてるようなもんだ。それくらい、その北方謙三という作家は凄いんだ」と言っていた。
それが、僕と北方謙三文学との出逢いだった。
萬月がどれほど言うのか、と思って、『夜の終わり』を読んでみた。確かに面白かった。でも、言うほどじゃないじゃないか、というのが正直な感想だった。きっと、子供だったのだと思う。
それから一年くらいが経って、自分が高校三年になると、
陸上で挫折したり、色々負けを味わったのだと思う。
少しずつ、北方謙三の本が好きになってきた。
北方謙三の本は、ただひたすら、「男を描く」本だった。
男達が酒を飲み、心に癒せない過去を抱えながら、社会の折り目で生きている。ひっそりと、息をひそめて。
でも、いつ燃え上がってもおかしくないような、熱いものを心のなかに抱えていて、それをどう処理していいのか分からなくて、馬鹿をやる。
夢を追ったり、人と争ったり、何かを守りあって、ぶつかったりする。
そして、死んでいく。ときに、生きていく。心に死をまた抱えながら。
ただ、間違えちゃいけないのは、物凄く肯定的なエネルギーに文学は支えられているということだ。
前へ、生きろ、と言われるような気がする。
気がするだけで、北方謙三はそんな女々しいことは言ったりしない。
僕は言ってしまう。生きよう、とか、作品で言ってしまう。
北方謙三は、そういうことを滅多にしないのだ。
しないからこそ、僕達は勝手に、そうなっていく。
そんな北方謙三には傑作が森のようある。
しかし、今までで一番良かったのは、北方版『三国志』だった。
壮大で、哀切で、雄雄しかった。
そして、今日読み終わった『水滸伝』は、その三国志に比肩する、凄まじい小説だった。
腐りきった国を打倒しようと、梁山湖に集った、108人の英傑たち。その十年の軌跡を、全19巻にわたって描きつくした作品だった。
読み終わったあと、放心したみたいに部屋に視線が定まらなかった。どこかに浮かんだみたいに体が軽くて、心がズタズタにされている。悲しいようで、嬉しい感覚だった。ここまで感動させてもらえたからだ。
眠れない。仕事が手につかない。
そんな昂奮を味わえる、至上の19冊です。
僕もそんな物語を綴りたいと思います。
posted by 皆見龍一郎 at 00:02|
日記
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